1896年アメリカ合衆国大統領選挙(1896ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英:United States presidential election, 1896)は、
共和党の
ウィリアム・マッキンリーが
民主党の
ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを破ったが、歴史家達はアメリカ史の中でも最も劇的な選挙戦の一つとなったと見ている。政治学では、1896年の選挙をしばしば再編成の選挙と見ている。マッキンリーは、実業家、専門家、熟練工場労働者および富裕な農夫を代表する連携を作り上げた。合衆国の北東部、
中西部の北部および
太平洋岸の州では最強だった。ブライアンは民主党、人民党およびシルバー共和党の候補者だった。
南部、中西部の田舎および
ロッキー山脈の諸州で最強だった。
複本位制、
金本位制、銀の自由鋳造および
関税といった経済問題が重要だった。共和党の選挙対策本部長マーク・ハンナは350万ドルの予算に裏付けられた多くの近代的選挙技術を発明した。ブライアンより10倍もの金を遣った。民主党のブルボン民主党(実業家寄りの派閥、現職大統領
グロバー・クリーブランドが代表者)との離別は、その後の16年間にわたる共和党の
ホワイトハウス支配の始まりとなり、それは
1912年に民主党の
ウッドロウ・ウィルソンを選ぶことになった共和党の分裂まで続いた。しかし、ブライアンは選挙で敗北したが、その「素人」の連携が20世紀に入っても民主党の主潮となり、ウッドロウ・ウィルソン、
フランクリン・ルーズベルト、
ハリー・トルーマンおよび
リンドン・ジョンソンと続くリベラルな経済計画で重要な役割を果たすことになった。
弁護士で元下院議員、かつ上院議員では落選した候補者ウィリアム・ジェニングス・ブライアンがその穴を埋めた。優れた遊説家であるブライアンはネブラスカ州の出身であり、
1893年の恐慌に続く経済不況に苦しむ何百万人もの田舎のアメリカ人の際立った代弁者として広く認められていた。多くの歴史家に拠ると、ブライアンはアメリカ史の中でも最も偉大な政治演説の一つ「クロス・オブ・ゴールド」演説を民主党全国集会で行った。この演説では、経済不況と闘っている農夫や工場労働者を熱情的に弁護し、大都市の実業家や企業所有者および指導者を経済不況の大半の原因を作ったとして攻撃した。金融システムの改革を要求し、国有銀行の費用で通貨を発行する権限を政府に戻すことを要求した。ブライアンの演説は非常に劇的であるので、彼が演説を終えると、多くの代議員が彼を肩に担いで議場を回った。この演説は集会の代議員をまとめあげ、ブライアンを大統領候補にすることになった。最も接近した指名候補者の元上院議員リチャード・"シルバー・ディック"・ブランドを3対1の得票率差で破った。
メイン州の富裕な造船家
アーサー・スウォールが副大統領候補に選ばれた。スウォールの富は選挙資金を払うために貢献できると、勢いづかせたと考えられる。ブライアンは36歳であり、主要政党に大統領候補に指名された者としては最も若いものになった。