落語や
講談などでは、あまりの大食漢でそのわりに出世が遅いので、一度
武隈部屋を破門となり、故郷にも帰れないので自殺を決意、この世の名残にと入った飯屋でその食いっぷりを主人から見込まれて、
錣山部屋に入門・・・ということになっているが、これは創作。師匠の代がわりにより一時所属が
粂川や
雷になったことや、お抱えが
盛岡藩から
萩藩に変わったことなどが、誤解されてひろまったものだろう。江戸
柳橋で
コンニャク屋の下男をしているうちに力士を志し入門したという。
四股名は
萩の
景勝地「阿武の松原」(萩ではあぶの松原と読む)に由来する。阿武松を名乗る前は小柳長吉という四股名で取っていた。
色白の肥満体が力を込めて朱に染まった姿は錦絵のようといわれた。
長州で
博多織の帯の一種が「小柳帯」と呼ばれたほど婦人に人気があった。温厚で義理堅く、情に篤い人柄だったが、相撲の方はよく言えば慎重、悪く言えば消極的な取り口で、作戦的な
立合いが多く、「
待った待ったと、阿武松でもあるめぇし」と江戸の流行言葉にもされた。