日本に「銃」としての鉄砲が伝来する以前、蒙古襲来時に「てつはう」と言う火薬を使った音のする武器が知られていたことから、銃が伝来してのち、これに「鉄砲」の字を当てたとも云う。通説では、「銃」に相当する鉄砲は
天文12年(
1543年)に、
ポルトガルの船舶が
種子島に漂着したことをもって伝来の最初とする。ただし、近年
宇田川武久が日本の火縄銃と西欧の銃の構造の違いなどから、それ以前から銃が
東南アジアで改良された銃が日本に伝来していた可能性を指摘して以後、それ以前に日本に銃が存在していたのかどうかについての議論が活発に行われている(
鉄砲伝来)。
元和偃武後、
江戸幕府は鉄砲を規制する方針を採った。ただし、その本格化は
貞享4年(
1687年)以後の
徳川綱吉による
鉄炮改強化以後のこととなる。それ以前は藩によっては
農兵制を採用したりする藩(
山鹿素行などの
軍学者の中にもこれを支持する意見があった)もあり、統一した方針が確立されていたわけではなかった。江戸幕府においては
新居関所における
入鉄炮の規制や
明暦3年(
1657年)の
関東盗賊取締令における鉄砲統制などがあったが、綱吉の政策以後在村の鉄砲の没収などの措置が採られ、
生類憐みの令による鳥獣の観点から規制は強化される方向にあった。もっとも、農村部における鳥獣による農作物への被害を避けるために領主が管理する鉄砲を特別な租税(
鉄炮運上)と引換に一時的に借り出すという名目での
預鉄炮(
拝領鉄炮)は容認せざるを得なかったのである。
江戸時代の200年以上にわたって日本の鉄砲は火縄銃の水準に留まった。これは
鎖国や
幕藩体制による
鉄炮鍛冶の保護と統制による影響と言われているが、西洋の集団で弾幕射撃を行う用法とは異なり、狙撃型の用法が主で命中率を重視した日本においては、引き金を引いてから弾が発射されるまでにタイムラグのある
燧石式銃は好まれなかったとする説、また、燧石式銃に必要な良質の火打ち石が国内で採れなかったことによるという説もある。だが、
19世紀以後のヨーロッパにおける
雷管や
施条式銃などの開発が、こうした弱点を徐々に解決しつつあり、
幕末の
開国以後には急速に西洋式の銃に取って代わられることになった。明治維新以後は火縄銃は完全に使われなくなり、長年の保護と職人としての意識に支えられた鉄炮鍛冶の多くは新式銃への転換を拒んで廃業して帰農していくことになる。