サッカーを始めたきっかけは週一回の『
三菱ダイヤモンド・サッカー』。世界のトップ選手たちのプレイに憧れ
ビデオの無い時代、テレビ放送に目を凝らし翌朝、近くのグラウンドで想像してボールを蹴った。育った
府中町は
東洋工業(
マツダ)の本社があり、中学の校庭にナイター施設があったため、
船本幸路や
大野毅らがよく来てサッカーを教えてくれた。大野が日本代表と知らず「俺のドリブル、あんたには止められんぜ」と実際に抜いていた。「まともにタックルを受けたら骨が折れてたろうが」と話している
[週刊サッカーマガジン、ベースボール・マガジン社、2008年1月6、13日合併号、56、57頁]。
当時、広島で一番強かった
県立広島工業(通称・県工)に進学。同校監督は第1回
FIFAコーチングスクール(
1969年)で、実技でトップになり、後に
JFAの専任コーチも務めた松田輝幸で、さすがに松田からはボールは取れず、徹底した指導を受けドリブルに磨きをかけた
[週刊サッカーマガジン、ベースボール・マガジン社、2008年1月6、13日合併号、56、57頁]。広島工業時代は1年からレギュラーに抜擢され
楚輪博、
石崎信弘、
木村和司、
猿沢茂らとスペクタクルなサッカーを展開。
1975年、
高校選手権ベスト4。初戦の
新潟巻高校戦10-0は、18年ぶりの10点差以上の記録で、得点のほとんどが金田からの好配給によるもの。卒業後
中央大学に進み2年生で日本代表に選出されると
1977年6月15日日韓定期戦、日本代表ラストゲームとなった
釜本邦茂のアシストで新旧交代を象徴するような代表初ゴール
[日本サッカー史・資料篇、後藤健生、双葉社、2007年1月、141頁]。19歳119日で記録したこのゴールは、30年以上たった現在も破られていない日本代表国際Aマッチ最年少ゴールである
[日刊スポーツ、2008年10月10日、9頁]。変幻自在のドリブルの名手として知られ、この頃から世界の強豪チームを相手にしても、切れ味鋭いドリブルは充分通用した。大学3年時には
ブンデスリーガ・
1.FCケルンからオファーが届いた
[『キンタのサッカーで遊ぼう』49頁。このオファーは金田には直接知らされず、中大OB会の判断で断ったのだという。]。
卒業後は郷里広島の
東洋工業に入る予定だったが、単位を落としてしまい、大学に通いながらプレーできる在京チームを希望。多くのトップチームに声を掛けられたが1980年、
加茂周監督に強く歓誘され
日産自動車(
横浜F・マリノスの母体)に入団。日産入社の理由を自著では、一企業として良い会社、また本社が
銀座にあるし女子社員も美人が多いと評判だったから、と述べている。当時の日産は代表選手もおらず、
日本サッカーリーグ(JSL)で2年連続の最下位という結果に終わり再び2部へ降格した時期。しかし、翌年県工の後輩、木村和司が入部。日本屈指の才能と技術を持つ二人の加入により以後、
水沼貴史、
柱谷幸一、
松永成立、
長谷川健太、
井原正巳ら有力選手が毎年の様に集まり日産黄金時代を形成した
[モダンサッカーへの挑戦、加茂周、講談社、p54-63、1994年][週刊サッカーマガジン、ベースボール・マガジン社、2008年1月20日、58、59頁、1月27日号、56、57頁]。