発祥ははっきりしないが、『
日本書紀』によると既に
飛鳥時代には地方の
豪族がその娘を天皇家に献上する習慣があった。一種の
人質であり、豪族が服属したことを示したものと考える説が有力だが
[青木和夫 1965]、
延喜17年(
917年)の太政官符に、
出雲国造が「
神宮采女」と称して妾を蓄えることを禁止しつつも神道祭祀に必要な場合には1名に限り認める内容のものがあることを根拠に、地方の祭祀を天皇家が吸収統合していく過程で成立した制度で、祭祀においては妾と同一視され後述のとおり子供が出来る行為を伴ったと推測した説
[青木和夫 1974]もある。中には天皇の気に入り、その子供を産む者もいた。が、当時は母親の身分も重視する時代であったため、采女出生の子供は中央豪族や皇族出生の子供に比べて低い立場に置かれることがほとんどであった。
平城天皇の改革により、采女献上の制度は廃止され、「采女司」も廃止になり、残っていた采女は「
縫殿寮」に所属した。
嵯峨天皇は「采女司」を復活させたが、以後は采女は中央貴族の子女から選ばれるようになり、形骸化。
江戸時代以降は
天皇の
即位式の時のみ女官から選抜されるようになった。この時には、女官の正装たる
十二単ではなく丈の短い特殊な
采女装束を着用した。