祖父の
本教ははじめ下役人であったが経済的手腕に優れていたため立身し
民政家として聞こえ、
田安家に抜擢され治績を残した。父
麓谷も田安家 家臣となり
漢詩人として名を知られた。このような文雅の家系に育った文晁は文才を持ち合わせ、
和歌や
漢詩、
狂歌などもよくした。
菊池五山の『五山堂詩話』巻3に文晁の漢詩が掲載されている。
26歳で田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した。30歳のとき
田安宗武の子で
白河藩主
松平定邦の養子となった
松平定信に認められ、その
近習となり定信が隠居する
文化9年(1812年)まで定信付として仕えた。寛政5年(1793年)には定信の
江戸湾巡航に随行し、『
公余探勝図』を制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し図録集『
集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し古書画や古宝物の写生を行った。また「
石山寺縁起絵巻」の補作を行っている。
小峰城三の丸にアトリエ「小峰山房」を構えた。
白河だるま市の
だるまは文晁が描いた図案をモデルにしたとされている。