中京商業高等学校から大東文化大学に進学、
箱根駅伝を4年間のうち、3年間走った。4年次には2区で区間賞を受賞している。しかし大学2年の夏に
心疾患を患い、一時は競走生命をも失いかけた。ところが1年後の夏にこの疾患が完治。その1年後
カナダの
エドモントンで行われた
ユニバーシアードの
10000mに出場して優勝するまでに至った。
全日本大学駅伝対校選手権大会でも大東文化大学のエースとして活躍、第15回大会では優勝を経験している。競走生命の危機から学生長距離界の中心選手へと奇跡の復活を遂げたのである。
現役引退後は拓殖大学陸上部監督として招聘される。当時の拓殖大学は戦前から出場しながら60年代、80年代にほぼ欠場の時代が続き、箱根駅伝人気の上昇に合わせて強化を始めており、指導者を探していたところだった。現役時代さながらに前半から突っ込んでいく果敢な序盤の入りを伝授する一方で、スカウト初期の部員には鉄拳制裁も辞さないほど厳しい練習だったと言われている。
1998年の74回大会では19年振りの最高順位タイ(8位)を記録するも「(戦力からは)4位、5位も狙えたのに、恥ずかしい」と不満を口にするなど、求める結果の高さも現役時代譲りだった。