前首相の松方正義が自らの閣僚にも見放されて内閣を放り出すという事態は、
8月2日に大命を受けた伊藤にも今後の政権運営に不安を抱かせた。そこで伊藤は主だった
元勲の入閣を条件に組閣を行うことを表明、黒田清隆・
山縣有朋の両首相経験者の入閣を得て組閣を終えた。このため、「元勲内閣」と称された。なお、同年
11月27日に伊藤が乗っていた
人力車が
馬車と衝突して大破し、転落した伊藤が重傷を負ったために
井上馨内務大臣が臨時首相代理を翌年
2月7日まで務めるという
交通事故が起きている。
だが
三国干渉、続く
乙未事変と
露館播遷によって日本の朝鮮半島への影響力はむしろ低下し、戦時中の政府と民党の協調関係は次第に崩れていった。そこで1896年、
航海奨励法、
造船奨励法を定めた。また、伊藤は
超然主義を放棄して
自由党総裁
板垣退助を
内務大臣として入閣させて、同党の与党化を図る。続いて前総理・松方正義と
進歩党党首の
大隈重信の入閣を計画するが、これに大隈にライバル意識を抱く板垣と超然主義を固守する山縣が反発、これを見た伊藤はこれ以上の政権維持は困難であるとみて辞表を提出したのである。