昭和3年9月に
常陸山の叔父に紹介されて
出羽海部屋に入門、
早稲田中学に転校し学校には部屋から通った。その後、
早稲田大学(はじめ第一高等学院、のち専門部政治経済科)に進学、
初土俵を踏むのは卒業後というのが
出羽海親方(元
小結両國)との約束だったが、
春秋園事件により出羽海が特別に初土俵を許可、
昭和7年2月場所
幕下付出で初土俵。
四股名の笠置山は出羽海が命名した。
昭和8年1月場所新
十両、卒業時は既に関取だったので卒業式には
大銀杏を結って出席した。
昭和10年1月場所十両で11戦全勝優勝して同年5月場所新入幕。
昭和12年1月場所関脇。
三役は通算3場所勤めたがいずれも10敗して1場所で平幕に下がる。力士としての弱点もいくつかあったが、当時は非常に珍しい学生出身力士としての頭脳を活かした理詰めの攻めで活躍、
一門の力士には
双葉山に勝つための作戦を授け
昭和13年6月の「
改造」という雑誌に掲載した「横綱双葉山論」、そして直後の
昭和14年1月場所自ら授けた作戦で双葉山の連勝を止めた
安藝ノ海によって名を上げた。しかし本人は本場所では1度も勝てず、ある時準場所で双葉山を寄り切った際には本場所で勝てたらその場で引退発表してもいいとまで言ったそうである。結局17戦全敗という年6場所制以前の最多記録を作ってしまい、自らの手で作戦を立証することはできなかった(後日笠置山は双葉山から「勘ちゃん(笠置山の本名)は頭で勝とうとするからダメなんだよ」とからかわれたという)。しかし立浪
三羽烏の残り2名相手にはなかなかの活躍を見せ
昭和19年1月場所では得意の
二枚蹴りで
羽黒山から
金星を挙げ、
大関名寄岩はしょっちゅう得意技にはめられていた。
昭和20年11月場所の番付に名前を残して引退、
年寄秀ノ山を襲名。断髪式は翌年11月20日、母校早稲田の
大隈講堂で行なわれた。笠置山は現役時代、早稲田大学から
化粧廻しを贈られており、それを締めた写真も有名である。
現役時代から英字新聞を読み、小説、随筆、相撲評論を書くなど、文章・文筆も巧みであった。引退後も、その頭脳は遺憾なく発揮され、
昭和30年の
決まり手70手制定や、公認相撲規則の条文化も行なった。元双葉山の時津風理事長の片腕となって活躍、協会のスポークスマン役もこなし、アナウンサーと見紛う程の流暢明快な語り口で
物言い協議の場内説明役を務めた。
昭和35年12月に
日本相撲協会の財団法人化35周年を祝う式典の際に時津風理事長に挨拶状を渡すことになっていたがこれを忘れ慌てて取りに戻るという一幕もあった。最晩年まで、雑誌『
相撲』に自伝小説を連載していたが、突然の死によって未完におわった。