左四つからの寄り相撲が得意で、当時の
横綱玉錦とも好勝負を展開した。
1938年5月場所新関脇。このとき、すでに30歳ではあったが、着実な昇進には
大関も期待された。しかしこの場所、玉錦との対戦で膝を負傷して棄権して不戦敗、休場して再出場したものの、そのあと勝てずに負け越し、大関の声もかからなくなってしまった。その後も
幕内上位を維持し、誠実な人柄もあいまって、地味な人気があった。
1939年1月場所11日目、大関
鏡岩との対戦で、水が入って二番後
取り直しとなったとき、鏡岩の棄権の申し出に対して、不戦勝となることを承諾せずに、彼も棄権を申し出て、両者不戦敗となったことは、当時の社会の風潮ともあわせて武士道的な態度としてたたえられた。