しかし翌年、郡司は軍からの強い要請によって帰還する事になる。この時、郡司は当初全員を帰還させるつもりであったが、郡司の父である幸田成延が、千島開発を途切れさせない為に自分が占守島に残る事を強硬に主張。郡司はこれを翻意させるため、白瀬に成延の代わりとして占守島へ残留する事を要望する事になる。白瀬も最終的にこれを承諾したが、しかしこの2年目の越冬は過酷なものとなった。白瀬を含む4人が壊血病に罹り、白瀬以外の3人は死亡。壊血病に罹らなかった2人のうち1人は
ノイローゼとなり、白瀬も病気による体力の低下から食料の調達が出来なくなり、愛犬を射殺してその肉を食べる事でようやく飢えを凌いだ程であった。白瀬らは
1895年(明治28年)8月になって救助されたが、この過酷な状況に追い込まれた事と、越冬の為
日清戦争に参加出来なかった事への悔やみから、白瀬は郡司親子を恨むようになり、以後郡司と白瀬の仲は極端に悪化する。
1910年(明治43年)探検の費用補助を
帝国議会に建議(「南極探検ニ要スル経費下付請願」)、衆議院は満場一致で可決したものの、
政府はその成功を危ぶみ3万円の援助を決定するも補助金を支出せず、渡航費用14万円は国民の義捐金に依った。政府の対応は冷淡であったが、国民は熱狂的に応援した。同年
7月5日に
神田で南極探検発表演説会を開催、当日南極探検後援会が組織され、幹事に
三宅雪嶺・
押川方義・
桜井熊太郎・
村上濁浪・
田中舎身・
佐々木照山、会長には
大隈重信が就任した。しかし船の調達が難航し、最終的に千島探検で険悪の仲となっていた郡司に頭を下げ、元
漁船で、千島遠征に使用された積載量僅かに200トンという木造帆船を買い取る事になる。船は中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施され、「
開南丸」と命名された。因みに命名したのは
東郷平八郎である。極地での輸送力は29頭の犬だった。