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「池谷公二郎」||スポーツ-master.com 【05/28update】

池谷公二郎 wikipedia|無料辞書

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|出身地 = 静岡県静岡市
|生年月日 =
|没年月日 =
|身長 = 178
|体重 = 78
|利き腕 = 右
|打席 = 右
|守備位置 = 投手
|プロ入り年度 =
|ドラフト順位 = ドラフト1位
|初出場 = 1974年6月29日
|最終出場 = 1985年10月24日
|経歴 =
静岡県立静岡商業高等学校

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・ 金指造船所
日本楽器
広島東洋カープ (1974 - 1985)
|経歴補足題 = コーチ歴
|経歴補足 =
・ 広島東洋カープ (1989 - 1993)
読売ジャイアンツ (1998 - 2001, 2004)
|選出国 =
|選出年 =
|得票率 =
|選出方法 =
-->
池谷 公二郎(いけがや こうじろう、1952年6月28日 - )は、日本プロ野球選手(投手)、野球指導者、野球解説者

◆ 経歴
静岡県静岡市葵区出身。静岡商業高校時代、新浦壽夫の存在もあり控え投手。新浦が1年で中途退学し読売ジャイアンツに入団したため、2年時にはエースとして期待されたが伸び悩み、松島英雄(のち大洋ホエールズ)の控え。3年生でエースとなり県内ではほぼ負け知らずであったが、夏の県大会では2回戦で番狂わせの敗退。高校卒業後、社会人野球へ進み、金指造船所に入社するも1年も経たず野球部が解散、特別措置で近鉄バファローズに7位指名されたがそれを拒んで日本楽器に移籍。1972年都市対抗野球大会では主にリリーフとして活躍し優勝に貢献。ドラフト1位で広島東洋カープに指名されたが、入団は翌年1973年シーズン終了後にずれ込んだ。これは、同じく日本楽器のエース新美敏東映フライヤーズ(翌年2月より、日拓ホームフライヤーズ)に入団するため、主力投手が二人抜ける事態になる会社側から待ったがかかったためであり、池谷自身も会社に恩義を感じていたためと言われている。他球団の指名の可能性もあったが、仁義を通して1973年のドラフト会議前に広島入りした。
赤ヘル投手陣の一角として、1975年カープの初優勝時には外木場義郎の20勝に次ぐ18勝、翌・1976年には20勝を挙げて最多勝を獲得、沢村賞を受賞。3度のセ・リーグ優勝と2度の日本一に貢献した。その一方で高めのストレート勝負は一発の危険と隣り合わせであり、かつ広島市民球場をホームグラウンドとしていたことから被本塁打も多く1977年には48被本塁打を記録し、これはプロ野球記録となっている。
右腕を腰の後ろまで回し、左腕を高く掲げ、遠心力で投げるシーソーのようなフォームから「シーソー投法」あるいは「ぎっこんばったん投法」とも呼ばれた。バッターとの真っ向勝負を挑み1976年、77年と二年連続奪三振王にもなった。王貞治は引退を決意した一因は池谷のストレートの伸びについていけなくなった事もあると自著に書いている。しかし、シーソー投法で当然のように肩を痛め、その後は思った成績は残せず1985年古葉竹識監督の勇退とともに引退。
その後解説者を経てコーチとしてカープに復帰。読売ジャイアンツでも投手コーチを務め、現在は日本テレビ広島テレビラジオ日本の野球解説者。カープでは津田恒実と双璧、と言われる程人柄のいい人物として知られ広島のローカル番組にもよく出演している。
現在はわかりやすい解説が売りの解説者として好評を博しているが、解説者を始めた初期には、結論の多くを「〜(選手名)の気持ちが勝ったから/負けたから」と帰結させる解説スタイルが批判を受け一時期は選手の心情の説明でさえも、しばしば「気持ち」という言葉を避ける事も見られた。
次男の陽輔(ようすけ)は法政大学ラグビー部でレギュラーとして活躍し、現在はサントリーサンゴリアスに所属している。

◆年度別投手成績