東山天皇の治世は23年に及ぶが、その全期を通じて父・
霊元上皇が
院政を敷いた。しかし
1690年には幕府の後押しを受ける
近衛基熙が霊元上皇の後押しを受ける
一条兼輝を失脚させて朝廷政治の実権を掌握したため、その後、
関白近衛基熙と
霊元上皇の院政との間で「幕府との距離」をめぐって対立が深まった。
1694年、霊元上皇は政務の天皇への移譲を宣言するものの、実権は依然として上皇の手中にあった。更に
1697年には母・
松木宗子(
敬法門院)の信任の厚かった
議奏中御門基熙の更迭問題を巡って両親と対立して中御門の普段からの天皇軽視の言動に不快感を抱いていた近衛基熙との関係を強めた。その後、天皇は近衛基熙の補佐を受けて親政を遂行するようになる。
しかし東山天皇の在位期間はいわゆる
元禄時代に相当し、犬公方とよばれた
徳川綱吉の将軍在職期間と重なっている。徳川綱吉はことのほか皇室を敬ったため、朝廷と江戸幕府との関係はおおむね良好に推移していた。この結果、御料(皇室領)は1万石から3万石に増え、山稜の大幅修繕なども実現した。次の将軍
徳川家宣は近衛基熙の娘婿にあたり、東山天皇-近衛基熙-徳川家宣のラインの完成によって朝幕関係はもっとも安定した時期を迎える。天皇の在世中には実現できなかったものの、天皇の皇子・直仁親王によって新宮家(
閑院宮家)を設置するに至ったのもこうした良好な幕府との関係を抜きにして語ることは出来ない。