宮崎中学校(現
宮崎大宮高等学校)時代にマラソン大会で優勝したことをきっかけに長距離走を本格的に始める。中学卒業後は県立図書館に勤務。仕事のかたわら陸上競技を続けているうちに素質を認められ、1932年、27歳のときに
中央大学に進学。大学在学中の
1936年に
ベルリン五輪に日本代表として出場。出場した5000m・10000mでともに4位入賞を果たす。10000mのレースは
レニ・リーフェンシュタールの「
民族の祭典」に収録された。現役引退後は
毎日新聞の陸上記者やマラソンコーチなどとして活躍。