村上雅則 wikipedia|無料辞書
|生年月日 =
|没年月日 =
|身長 = 183
|体重 = 72
|利き腕 = 左
|打席 = 左
|プロ入り年度 = 1962年
|ドラフト順位 =
|初出場 = NPB / 1963年6月1日
MLB / 1964年9月1日
|最終出場 = 1982年
|経歴 =
・南海ホークス(1966 - 1974)
|経歴補足題 = コーチ歴
|経歴補足 =
-->
◆ 来歴・人物
アメリカに渡った当初は英語がほとんどわからず、辞書を使ってチームメイトと会話をしていたという。当初派遣は6月中旬までの予定だったが、そのままフレズノでプレーしていた。この年の南海は
ジョー・スタンカ、
杉浦忠の両輪に
野村克也や
広瀬叔功を擁してこの年の日本一になるなど戦力は充実しており、南海からの帰還要請はなかった。
同年
8月31日、突然メジャー昇格を言い渡される。チームの遠征先であるニューヨーク行きの航空券を渡されてそのまま空港へというあわただしい状況だったという。ニューヨークに着くと、チームの関係者から「契約書にサインをするように」と言われて契約の中身もわからずサインをした村上は、翌
9月1日の
ニューヨーク・メッツ戦に日本人として初めてとしてメジャー登板を果たした。
9月29日に
コルト45's戦の9回同点の場面で登板して11回までを無失点に抑え、11回にチームがサヨナラ勝ちしたため初の日本人メジャー勝利投手となった。この年は9試合に投げ1勝1S、防御率1.80の好成績をおさめた。しかし、当時の日本は
東京オリンピック準備と開催の真っ只中だったため、日本マスコミの扱いは小さかった。
翌1965年もジャイアンツとの契約を結んだが、そのオフに南海が留学の際の契約を反故にし村上を帰還させるよう主張したことで、村上の保有権を巡り南海・ジャイアンツ両球団間で紛糾が勃発した。話し合いは平行線をたどり、日本の
内村祐之コミッショナーに裁定を求めることになった。コミッショナーは
1965年シーズン終了を以て南海に復帰させるという妥協案を提示し、シーズン開幕後の4月末にようやく決着。村上は都合2年間メジャーでプレーした(詳しくは
日本人選手のメジャーリーグ挑戦を参照)。
1982年、引退。
1983年、サンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングキャンプに参加。選手契約には至らなかったが、ホームゲーム専用の打撃投手として契約した。
◆ 年度別投手成績
◇ 日本