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「村上雅則」||スポーツ-master.com 【05/28update】

村上雅則 wikipedia|無料辞書

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|出身地 = 山梨県北都留郡七保町(現・大月市)
|生年月日 =
|没年月日 =
|身長 = 183
|体重 = 72
|利き腕 = 左
|打席 = 左
|守備位置 = 投手
|プロ入り年度 = 1962年
|ドラフト順位 =
|初出場 = NPB / 1963年6月1日
MLB / 1964年9月1日
|最終出場 = 1982年
|経歴 =
法政大学第二高等学校
南海ホークス(1963)
サンフランシスコ・ジャイアンツ(1964 - 1965)
・南海ホークス(1966 - 1974)
阪神タイガース(1975)
日本ハムファイターズ(1976 - 1982)
|経歴補足題 = コーチ歴
|経歴補足 =
日本ハムファイターズ (1987 - 1988)
福岡ダイエーホークス (1989)
西武ライオンズ (1993 - 1994)
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村上 雅則(むらかみ まさのり、1944年5月6日 - )は、山梨県出身の元プロ野球選手(投手)。
日本人初のメジャーリーガーとして有名。メジャー時代の愛称は「マッシー・ムラカミ」。

◆ 来歴・人物
名門・法政大学第二高等学校では1960年夏、1961年春と甲子園夏春連覇を成し遂げるものの、1年先輩に柴田勲がおり、2番手投手の村上は春の大会で1回を投げた程度であまり注目を浴びる存在ではなかった。しかし南海の鶴岡一人の目に留まり、1962年9月、高校在学のまま南海ホークスと契約を結ぶ。
プロ2年目の1964年メジャーリーグサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下のマイナーチーム・1Aフレズノに野球留学で派遣された。
アメリカに渡った当初は英語がほとんどわからず、辞書を使ってチームメイトと会話をしていたという。当初派遣は6月中旬までの予定だったが、そのままフレズノでプレーしていた。この年の南海はジョー・スタンカ杉浦忠の両輪に野村克也広瀬叔功を擁してこの年の日本一になるなど戦力は充実しており、南海からの帰還要請はなかった。
同年8月31日、突然メジャー昇格を言い渡される。チームの遠征先であるニューヨーク行きの航空券を渡されてそのまま空港へというあわただしい状況だったという。ニューヨークに着くと、チームの関係者から「契約書にサインをするように」と言われて契約の中身もわからずサインをした村上は、翌9月1日ニューヨーク・メッツ戦に日本人として初めてとしてメジャー登板を果たした。9月29日コルト45's戦の9回同点の場面で登板して11回までを無失点に抑え、11回にチームがサヨナラ勝ちしたため初の日本人メジャー勝利投手となった。この年は9試合に投げ1勝1S、防御率1.80の好成績をおさめた。しかし、当時の日本は東京オリンピック準備と開催の真っ只中だったため、日本マスコミの扱いは小さかった。
翌1965年もジャイアンツとの契約を結んだが、そのオフに南海が留学の際の契約を反故にし村上を帰還させるよう主張したことで、村上の保有権を巡り南海・ジャイアンツ両球団間で紛糾が勃発した。話し合いは平行線をたどり、日本の内村祐之コミッショナーに裁定を求めることになった。コミッショナーは1965年シーズン終了を以て南海に復帰させるという妥協案を提示し、シーズン開幕後の4月末にようやく決着。村上は都合2年間メジャーでプレーした(詳しくは日本人選手のメジャーリーグ挑戦を参照)。
1966年に南海に復帰すると、当初の期待ほどの活躍はできず不評を買うが、1968年には18勝をあげ面目躍如を果たす。1973年のリーグ優勝に貢献するが、1974年オフに阪神タイガーストレード。その後日本ハムファイターズへ移籍すると、1978年には12勝をあげ復活した。1981年にはチームのリーグ優勝に貢献。
1982年、引退。1983年、サンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングキャンプに参加。選手契約には至らなかったが、ホームゲーム専用の打撃投手として契約した。
1984年1986年ニッポン放送で野球解説者を勤め、1987年1988年日本ハム2軍投手コーチ、1989年ダイエー投手コーチ、1993年1994年西武2軍投手コーチを歴任。
その後サンフランシスコ・ジャイアンツ極東担当スカウト、デイリースポーツ野球評論家を務め、現在はNHK衛星中継大リーグ解説者。プロ野球マスターズリーグの東京ドリームスにも参加している。

◆ 年度別投手成績

◇ 日本