朝日嶽を抱えていた庄内藩
酒井家は
徳川家康以来の譜代筆頭という家柄だった。
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れたことを知った朝日嶽は、挙兵する主君の許へはせ参じようと新入幕の場所を途中休場してしまう。しかし江戸を出ようとも前途は官軍に塞がれて出られない。朝日嶽は江戸橋の荷揚げ業鈴木伊兵衛に志を伝え、感銘を受けた伊兵衛は
榎本武揚に使いを出して幕府軍艦へ便乗できるよう手配した。洋服に簑笠を纏った出で立ちで風雨をついて小舟で軍艦に乗り込んだ朝日嶽は無事石巻に着き、官軍の目を逃れて昼は潜み夜に歩いて
鶴ヶ岡城にたどり着き、藩主は大いに喜んだ。庄内藩は官軍に大いに抵抗したものの明治元年9月に降伏、朝日嶽も翌明治2年(
1869年)4月場所から東京相撲に復帰した。東京に帰参した朝日嶽は大いに喝采を浴びたという。当時の人気力士を謡った俗謡に「相撲じゃ
陣幕、顔じゃ
綾瀬、程のよいのが朝日嶽」というものがあったが、
薩摩藩抱えだった陣幕は官軍につき、綾瀬川は
姫路藩から
土佐藩へ抱えを移るなどした。史実の通り幕府軍は敗れたのだが、朝日嶽の忠義が徳川びいきの
江戸っ子たちの胸を打ったのだろう。
「程のよい」と謡われたが色白の美男だったという。均整の取れた体つきで、高い人気におごらず節操高く力士の品位を高めた。明治11年、巡業で故郷の山形を訪れた際、時の県令
三島通庸が
五条家に取り計らい、山形限定(のち東北地方限定に)の横綱免許を五条家から受け、
土俵入りを披露した。なお
吉田司家からの免許は下りていないので、正式な横綱には数えられていない。