広島県三原市立幸崎中学校で、陸上部に入り陸上をはじめた。中学時代は目立った選手ではなかったが、負けず嫌いで、練習は熱心で、一人で遅くまで走っていることも多かった。高校進学では、駅伝で有名な世羅高校を希望したが、学区が違うため、
広島県立西条農業に進学し、約2時間かけて通学していた。田園風景のバラス(
砂利)道を走り足腰を鍛えた。当時
箱根駅伝5連覇、
全日本大学駅伝3連覇等駅伝で実績のある実力校
日本体育大学に進学し、トラック競技で活躍。在学中から多くの国際大会に参加。
1977年、
ユニバーシアード第9回ソフィア大会で
3000m障害出場。
1978年、第8回
アジア大会(
バンコク)では3000m障害物で金メダル。この1ヶ月後に出場した箱根駅伝で日体大の総合優勝をもたらした山登りの激走は有名。
1979年に
国立霞ヶ丘陸上競技場において3000m障害で出した記録 8分25秒8 は今も2番目に古い日本学生最高記録として残る。この頃同期の
中村孝生、瀬古らと共に
中村清の指導を受け、卒業後は中村が指揮を執る
ヱスビー食品で指導を受けたいと思うようになっていった。このことで一時日体大関係者の中に「新宅、中村は卒業してもOB会には入れない」と不快感を示す者も現れた。その状況下でも新宅と中村は「それはそれ、これはこれ」と割り切り、
1980年の
箱根駅伝(56回大会)では快走し、瀬古を擁する
早稲田大学を下して優勝を果たした。