大学時代は伸び悩んだものの
1955年、
大昭和製紙入社後は才能が開花。翌
1956年、跳べば自己記録を更新、当時の新聞は「
メルボルンに光明」と大きく騒ぎ立てた。同年秋、
仙台市宮城陸上競技場で行われた日本陸上競技選手権兼
メルボルンオリンピック最終予選会に於いて、"三段跳世界新記録を樹立"(16m48cm)。当時の世界記録を25cmも上回る脅威的な記録だった。しかし40日後の五輪本番までの合宿中、カメラマンの要望で何度も跳んで足首を捻挫、ほとんど練習出来ないまま本番に臨み8位に終わった。当時の
マスコミは「若さと精神面の問題」と厳しく批判した。日本中の期待に沿えず重い十字架を背負いながらも競技を続け、
1960年、
ローマオリンピック予選会で3位となり、出場権を得たかに思われたが、結果的に選考会議で漏れ、代わりに6位の選手が代表となった。このときユニフォームとスパイクを燃やし選手生活に訣別、陸上を辞めた。