代わって上野
上里見藩より、
若年寄の
松平忠恒が2万石で入る。歴代藩主の4人は若年寄、
寺社奉行、奏者番などを歴任した。しかし藩財政の困窮化と領内の荒廃化が進み、
寛政11年(
1799年)に困窮農民救済の低利貸付金制度(恵民講)を制度化したが、効果は無かった。藩の借金であるが、
天保15年(
1844年)には収入に対して借金が10倍近くの7万4,032両にまでなっていたと言われている。幕末期には激動の波に飲み込まれて見るべきところもほとんど無く、
明治元年(
1868年)の
戊辰戦争では新政府側に与して藩を維持するのが精一杯であった。翌年の
版籍奉還で最後の藩主・
松平忠恕は
知藩事となり、明治4年の
廃藩置県で小幡藩は廃されて
小幡県となり、同年10月には
群馬県に編入された。