下半身の硬さに難があり、四つ相撲には向かず、徹底して突き押しを磨いた。これが功を奏して順調に強みを増したがその強さゆえに
一門には太刀山と稽古できる力士が少なく師匠は敵将常陸山に「太刀山に稽古をつけて欲しい」と頼んだ所快諾され、
駒ヶ嶽とともに稽古をつけてもらった。その双手突きの威力は、誰も二突きとは耐えられないという意味から、一突き半→一月半で
「四十五日の鉄砲」と恐れられた。
大関時代の明治43年(
1910年)6月場所の3日目に
小結小常陸と対戦した時など
立合いの1発で桟敷まで突き飛ばし、足で桟敷を突き破ってしまった小常陸は負傷により翌日から休場し、翌場所は全休する羽目になった。この時のエピソードとして、小常陸の後援者がうまく相撲が取れなくしようと前日に太刀山に対し酒を多く飲ませ二日酔いを狙い、結果的に逆に返り討ちにされてしまったという話が伝わる(神崎という
力士が芸者をあてがって太刀山を一晩寝させない策を取ったとも言われている)。8日目に
平幕の
八嶌山との対戦では相手が怖がって太刀山が手を出す前に土俵から逃げ出した(太刀山は前に歩いたのみで、
決まり手は
にらみ出しと言われた
[当時からそう言われたかについては真偽の程が疑わしい。「1910年(明治四十三年)夏場所では、八嶋山が、この突っ張りを恐れるあまり、一度も体が触れないまま自ら土俵を割り、「にらみ出し」とはやされた。」(1993.09.06 朝日新聞朝刊)という記事が掲載されていたが、当時の取組内容が記載されている朝日・読売・毎日(東京日日)新聞によれば、決まり手は「よりきり」となっている。八島山(島が正しい)との取り組みは明治44年(1911年)2月に開催された春場所でも実現したが、その時の決まり手も「つつきだし」。ちなみに「決まり手」として相撲協会が認めるようになったのは昭和30年(1955年)から。それ以前は新聞などのメディアが勝手に名づけていた。])などその強さを物語る逸話は多い。ある時は稽古場に当時の幕内力士全員を呼んで土俵の内側に足で1m程の丸を描き「ここから儂を押し出したら賞金10円やるぞ」(
大正時代の10円は今なら数十万円にはなるか)と言ったが誰にもできなかったという。四つに組んでも
呼び戻しの大技があり、その強烈さから
菊人形の同名の絡繰りになぞらえて「仏壇返し」の異名があった。
一方、当時は常陸山に代表される、がっぷり四つでしのぎあう相撲が全盛であり、太刀山の瞬間で勝負をつける取り口は面白みに欠けると批判された。しかし、今になってみれば「梅・常陸時代」と、
栃木山のスピード感ある近代相撲との橋渡しをした存在として、その功績は大きい。最強力士の一人と考えられながら、ヒール役になってしまったのは(常陸山に比べ)ケチだったからだとも言われる。
大砲と荒岩の引退により明治42年(
1909年)6月場所、国技館の完成とともに大関に昇進すると4場所で横綱免許を獲得、太刀山が大関の頃までは対抗できた駒ヶ嶽もこうなるともはや相手にならなくなっていたらしい。明治43年(1910年)6月場所から明治45年(
1912年)5月場所まで5場所連続優勝。30歳を超えている力士がここに来て急激に強くなったのは体重増加によるところが大きい。それまでは190cm近い身長を有しながら100kg少々だったため、軽量な上に身長が邪魔をして取り難かったのだが、体重が150kgまで到達しほぼ敵のいない状況になる。
大正2年(
1913年)1月場所、大正4年(
1915年)1月場所、大正5年(
1916年)1月場所と全休場所が3回もあるものの、常陸山に対する
引分、小常陸に対する休み(当時は相手が休むと自らも休みになる)、
朝潮に対する
預り(軍配は太刀山だが物言いがついた)を挟み大正5年5月場所8日目に栃木山に敗れるまで56連勝を記録。これは引分や預り、休場を挟んでのものとしては
双葉山、
谷風、
初代梅ヶ谷に次ぐ史上4位に位置する。さらにその前にも
2代西ノ海に敗れるまで43連勝を記録しており、これがなければちょうど100連勝だったことになる。後に双葉山が記録を作った際には悔しがったと伝えられる。本人は「あれは勝ちを譲ってやったのだ」と言っていたが真偽の程は不明である。