現役中に師匠が没したため、現役中に
二枚鑑札で
年寄錦島を襲名、そのため
1918年(大正7年)からの2年間は「錦島三太夫」の名で土俵に上がった。錦島を名乗る直前の1年は「大響」の四股名で取っていた。先代からの預かり弟子である
大蛇山、大関
能代潟と2人の幕内最高優勝者を出すなど弟子には恵まれたといえる。なかでも十両時代の四股名を譲った能代潟との師弟愛は有名で、
1932年(
昭和7年)1月の
春秋園事件の際には脱退を勧誘された能代潟が「儂は紙屑拾いをしても師匠を養うのだ」と断った逸話が知られている。この逸話が広まり、『錦島三太夫』の題名で舞台化もされた。温厚、篤実な性格で人望があり、春秋園事件直後に協会取締にも就任したが、翌1933年(昭和8年5月15日)に42歳の若さで没した。