身長実に197cm(194cm説も)にも達した当時史上最長身の横綱(ちなみに体重は132kg)。後に199cmの
双羽黒が登場するまでこの記録は破られなかった。不器用を絵に描いたような
力士だったとはいうが、力は強く突っ張って突き切れなければ叩く取り口で右四つ左上手を取って、万全の構えを取れば誰にも負けなかった。
序二段にいた
明治21年(
1888年)、
四股名を「三澤瀧」から「
大砲」に改名(「大炮」と名乗っていた時期もあった)。明治25年(
1892年)6月場所に新
入幕、3勝6敗と全く通じなかったが、その大きさゆえか周囲の崩れに助けられたか、翌場所は何と
小結にまで昇進していた。明治32年(
1899年)5月場所に新
大関、4場所勤め全休1回、途中
休場も1回あったが、どういうわけか1度も負けず横綱免許を獲得した。横綱免許を獲得したおりに
止め名であるはずの
谷風の
襲名を勧められたが本人は笑い者にはなりたくないと断わった。明治35年(
1902年)5月場所には8勝1分の現在なら優勝に相当する成績も記録したが、
陸軍の
砲兵に志願して、明治36年(
1903年)5月場所から3場所全休、帰って来た時には持病の
リウマチを悪化させていた。
不器用ゆえか、自分で動くと失敗が多く、相手の出を待つ取り口で、しかも非常に相撲が遅いので
引分が飛び抜けて多く、最後の皆勤場所となった明治40年(
1907年)5月場所には9日間全部引分という記録まで出した。これには
雷親方(元初代梅ヶ谷)の“横綱は負けてはいけない”という発言が関係していたとも伝わる。普通勝たないといけないと解釈しそうなのをこう持っていく事ができたのは、当の雷親方も1880年1月場所で6休4分という記録を残していたりと引き分けで凌いだ事もあるためである。横綱時代の引分率は何と約40%、復員後の3年6場所に限ると7勝3敗1預25引分、69%にまで跳ね上がる。こうしたことから横綱ではなく「
分け綱」だと言われた。明治41年(
1908年)1月場所限りで
引退。