四股名は最初は大城戸、後に大木戸に改めた。横綱
若嶌が負傷により引退を余儀なくされた頃の
大坂相撲で最強を誇り、両手突きの威力は2発で相手は土俵の外といわれた。このあたり1突き半→1月半→四十五日と呼ばれた
太刀山に似ていると言えよう。当時大関の大木戸は3場所連続の全勝優勝も記録した。この成績を見た大坂相撲は
1909年(
明治42年)
吉田司家に横綱免許を申請、しかし司家は横綱免許を出さず東京横綱加判の上で再度申請せよと回答、しかし当時大坂は
常陸山により有力力士を次々と引き抜かれており、それを理由に常陸山を嫌っていたため東京の加判に難色を示し若嶌の加判だけでの申請を行おうとしたため交渉は決裂、大阪相撲は住吉神社と共謀し
1910年1月(明治43年)大木戸に対し勝手に免許を出し大木戸は奉納土俵入りを行なった。怒った司家は大坂相撲を破門、
東京相撲も立場上大坂に絶縁状を叩きつける大事件となった。このままであれば彼は公認横綱にはなれないところだったが2年後大坂相撲は司家に正式に謝罪、免許を再度申請した。司家は大木戸の横綱撤回(ただし大坂と熊本以外での地方巡業では横綱黙認)と今後大坂相撲が横綱免許を申請する際は東京横綱は加判をやめて口添えを行うことを条件とした。大坂はこれを受け入れたため今度は認められ東京相撲も絶縁を撤回、晴れて
1912年(
大正元年)12月に公認横綱となって、より一層の活躍が期待されたところで
脳溢血に倒れ半身不随になってしまったという。当然このままでは現役続行などできず引退、頭取(現在で言う
年寄)
湊を襲名したが充分に仕事ができずに廃業。