万延元年10月28日(1860年12月9日)、
摂津国御影村(現
兵庫県神戸市東灘区御影町)で父嘉納治朗作(希芝)と母定子の三男として生まれる。
嘉納家は御影に於いて屈指の名家であり、祖父の治作は酒造・廻船にて甚だ高名があった。その長女・定子に婿入りしたのが治五郎の父・治朗作希芝である。初め、治作は治朗作に家を継がせようとしていたが、治朗作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行って
幕府の廻船方御用達を勤め、
和田岬砲台の建造を請け負い、
勝海舟のパトロンともなった。
柳宗悦の義母は治五郎の姉である。ちなみに同じ嘉納家ではあるが嘉納三家と呼ばれる現在の
菊正宗酒造・
白鶴酒造とは区別される。
しかし育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い、非力な者でも強力なものに勝てるという
柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。当時は
文明開化の時であり、柔術は全く省みられなくなり、師匠を探すのにも苦労し、
柳生心眼流の
大島一学に短期間入門したりもした。この年に
天神真楊流柔術の福田八之助に念願の柔術入門を果たす。この時期の話として、「先生(福田)から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」という話がある。窮理の徒である治五郎らしい話である。7月、
渋沢栄一の依頼で
渋沢の飛鳥山別荘にて、7月3日から来日中の
ユリシーズ・S・グラント前
アメリカ合衆国大統領に柔術を演武した。8月福田が52歳で死んだ後は天神真楊流の
家元である磯正智に学ぶ。
10月起倒流皆伝。嘉納は柔術のみならず、
剣術や
棒術、
薙刀術などの他の
古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図し、
香取神道流(玉井済道、飯篠長盛、椎名市蔵、玉井滲道)や
鹿島新当流の師範を招いて、講道館の有段者を対象に「古武道研究会」を開き、剣術や棒術を学ばせた。また、
望月稔、村重有利、
杉野嘉男などの弟子を選抜し、
大東流合気柔術(後に
合気道を開く)の
植芝盛平や
神道夢想流杖術の
清水隆次、香取神道流の椎名市蔵などに入門させた。薙刀術は各流派を学んだ。(雑誌『新武道』によると、この薙刀術が昭和16年〜17年頃の
国民学校の標準となったと記されているが、国民学校令施行より以前に既に
大日本武徳会式の薙刀術が学校教育に採用されているため、この記述の正確性には疑問が残る。)