原敬は、安政3年(1856年)2月9日、
盛岡藩盛岡城外の本宮村(現在の
盛岡市本宮)で盛岡藩士原直治の次男として生まれた。後に「平民宰相」と呼ばれる原だが、原家は祖父・直記が
家老職にあったほどの上級
武士の
家柄で、敬は20歳のときに分家して戸主となり、
平民籍に編入された。
徴兵制度の戸主は兵役義務から免除される規定を受けるため分籍した。彼は
家柄についての誇りが強く、いつの場合も自らを卑しくするような言動をとったことがなかったとされる。また、後年、号を「一山」あるいは「逸山」と称したが、それは原の薩長藩閥への根深い対抗心を窺わせる。
戊辰戦争で「朝敵」となった東北諸藩の出身者が、「白河以北一山百文」と薩長出身者から嘲笑、侮蔑されたことへの反発に基づいているからである(白河とは福島県
白河市のことで、古来より「
白河関」がみちのくへの入り口であった)。
明治3年(
1870年)、原は再開された
藩校「
作人館」に入り、さらに翌年、上京して
南部家が盛岡藩の青年のために設立した「
共慣義塾」に入学したが、途中で学費が途絶えて数ヶ月で辞めてしまった。そこで、明治5年には費用のかからない
カトリック神学校に入学した。翌明治6年には
横浜に移って
神父宅に寄寓し、ここで受洗して「ダビデ」の洗礼名を受けている。明治9年(
1876年)、
司法省法学校を受験したところ、受験者中2番の成績で合格したが、学業途中で寄宿舎の待遇改善行動に関係したという理由で退校処分にあっている。法学校を追放された原は、
中江兆民の
仏学塾に在学の後、明治12年(
1879年)、郷里の先輩のつてで、
郵便報知新聞社に入社した。入社当初は
フランス語新聞の翻訳を担当していたが、次第に論文も執筆するようになった。しかし、
明治十四年の政変をきっかけに
大隈重信の一派が同社に乗り込んでくると、彼らと反りが合わず退社した。