1913年(
大正2年)、桂の主導による
立憲同志会の結成に参画して、桂の死後に総理(立憲同志会は
総裁職を総理と呼称していた)となった。翌年第2次
大隈重信内閣の外相として、
第一次世界大戦への参戦、
対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。大隈退陣後は、同志会と中正会が合同して成立した
憲政会の総裁として
元老政治の打破・選挙権拡張をめざす。しかし、同志会結成の過程で
犬養毅らと対立し、元老の西園寺公望からは対華21ヶ条要求を出した事に対して批判を加えられた。また総選挙のたびに議席数を減らすなど平坦な道のりではなく、苦節十年と呼ばれる長期にわたる在野生活を送った
[唯一、高橋内閣総辞職の際に、「加藤友三郎が辞退した場合には、加藤高明を後継総理とする」決定が元老会議で出された事があったが、これを知った立憲政友会が辞退を決意していた加藤友三郎を説得して翻意させてしまったために政権獲得の好機を逸している。]。