研究熱心で知られ、足腰を鍛えるために一本歯の高下駄をはいて
つり革につかまらずに
山手線を回ったり、左手の握力を強化するために左手で箸を持って米や豆をつまむ練習をしたりしたというエピソードがある。
1958年3月場所の初日には新
横綱の
若乃花を降しているが、これは雑誌「
相撲」1956年11月号の表紙に載った若乃花の写真を見て
立合いを研究した成果だという
[表紙に載っていた若乃花の写真は仕切り直しを終えて立ち上がる様子を捉えたものだった。この姿から若乃花の右脇がやや甘いと見た信夫山は、立合い左から張り手をかます奇襲に出た。すると狙い通り若乃花の体が起きて右脇が空き、信夫山は左から右へと二本差しに成功、見事寄り切りで若乃花を降した。]。このような努力の成果もあって、1958年7月場所で関脇に昇進した。しかし3場所関脇を保ったものの、以降は古傷の腰痛が悪化して十両まで落ち、
椎間板ヘルニアのために
1960年9月場所で引退した。
年寄竹縄から
山響を襲名したが、
1965年9月に廃業し、1977年52歳で没した。
鋭い出足からのもろ差しの型を得意とし、「りゃんこの信夫」というあだ名がつけられた。(「りゃんこ(両個)」とは、刀を二本差しにしていることに由来する武士の俗称。同時期のもろ差しの型を得意にした力士には、
鶴ヶ嶺がいる。)
モンロー・ウォークに似た歩き方にも特徴があり、特に若い女性に人気があった。出足でみせるすり足は「土俵の砂に二本のレールの跡が残る」と言われたほど基本に忠実で見事なものであった。