相撲ぶりは闘志あふれるもので、特に張り手を得意として
大関鏡里を張り倒したこともあった。
1953年1月場所には、初日に大関鏡里を破り(優勝した鏡里唯一の黒星だった)、4日目には横綱
羽黒山と対戦、はずみで横綱の親指にかみつき、骨折させた(勝負は羽黒山の勝ち)。5日目には横綱
東富士をやぶり、8勝7敗と勝ち越したが、
三賞はとれず、結局三賞受賞はなかった。
三役昇進もなく、最高位は前頭2枚目にとどまった。
1951年1月場所
千秋楽では7連敗後7連勝して勝ち越しをかけた
栃錦と二度の水入りが入る大相撲を演じ、敗れはしたが「力士生活中もっとも思い出の一番」と振り返っている。
引退後は
年寄大鳴戸を襲名、独立して部屋を興したが、朝日山親方(元
高津山)が急逝したために、二つの部屋を合併して新しく朝日山部屋を発足させた。朝日山から引き継いだ
高鐵山を
関脇に、大鳴戸以来の直弟子の
若二瀬を
小結に、そのほかにも個性的な力士を輩出して、1970年代初期には最多関取を有するほどに部屋を発展させた。
1974年には
トンガ王国から6人の弟子を入門させて話題になった。しかし、1975年、54歳で死去、部屋は若二瀬が継いだ。孫は
二所ノ関部屋の八劔。