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「与田剛」||スポーツ-master.com 【05/27update】

与田剛 wikipedia|無料辞書

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|出身地 = 千葉県君津市
|生年月日 =
|没年月日 =
|身長 = 182
|体重 = 84
|利き腕 = 右
|打席 = 右
|守備位置 = 投手
|プロ入り年度 =
|ドラフト順位 = ドラフト1位
|初出場 = 1990年4月7日
|最終出場 = 1999年10月2日
|年俸 =
|経歴 =
木更津中央高等学校
亜細亜大学

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NTT東京
中日ドラゴンズ(1990 - 1996)
千葉ロッテマリーンズ(1996 - 1997)
日本ハムファイターズ(1998 - 1999)
阪神タイガース(2000)
|経歴補足題 = コーチ歴
|経歴補足 =
サウザンリーフ市原
|選出国 =
|選出年 =
|得票率 =
|選出方法 =
-->
与田 剛(よだ つよし、1965年12月4日 - )は、福岡県北九州市生まれ、千葉県君津市出身の元プロ野球選手(投手)。
現在はNHK野球解説者東京中日スポーツ野球評論家。また、千葉県の社会人野球チーム「サウザンリーフ市原」の投手コーチ、2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表投手コーチも務めている。
夫人は元TBSアナウンサー木場弘子

◆ 来歴・人物
亜細亜大学時代は故障が多く、登板機会のほとんど無い補欠であった。しかし、NTT東京時代に最速157km/hの剛速球が注目され、全日本代表メンバーに抜擢。
1989年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。入団1年目の1990年には抑えの切り札として新人では史上最多となる31セーブを挙げ、新人王最優秀救援投手を獲得。その剛速球と名前から剛球投手と呼ばれた。
リリーバーを続けるうちに肩・肘への負担が選手寿命を縮めるパターンに与田も陥り、全盛期末期は蓄積疲労を自身で感じながらも、痛み止めの注射を打ちつつ投球していたという。4年目以降は右肘痛のため思うような成績を残せず1996年シーズン途中で内藤尚行との交換トレード千葉ロッテマリーンズに移籍。
1997年オフにロッテを自由契約となり、1998年日本ハムファイターズにテスト入団。その後日本ハムを自由契約となり、2000年阪神タイガースにトライアウト入団。登録名を「与田 剛士」(読み同じ)として再起を誓うも、同年限りで現役を引退した。
現在は、解説者としての仕事の傍ら、千葉県社会人野球チーム「サウザンリーフ市原」の投手コーチを務めている。野球解説には定評がある。また、全日本女子野球チームの投手コーチ、2009年第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の投手コーチにも就任している。2009年4月からはNHK「サンデースポーツ」のキャスターを務める。

◆ エピソード
・初登板は入団1年目、1990年の開幕戦・対横浜大洋ホエールズ戦である。同点で迎えた延長戦でのリリーフ登板であったが、ホームでのクロスプレーに対する際どいセーフの判定を不服とし、球審にくってかかった。
死球を与えてもなかなか頭を下げることは無く、1994年6月22日の横浜戦の時にグレン・ブラッグスに体を背ける内角球を投げた際にも、やはり与田は謝らなかったために、ブラッグスはマウンドまで駆け寄り、与田にパンチを浴びせ両軍入り乱れての大乱闘となった。その場で退場になった与田(ブラッグスも退場)はベンチに戻る際、グローブをベンチシートに思い切り叩きつけた。珍プレー番組でもこのシーンは頻繁に放映されている。
1991年の中日ドラゴンズの応援アルバム『燃えよドラゴンズ!!'91大竜界』収録の『好きよ、ストレート!だから今夜もここに来た』は、名前こそ出ていないものの与田の応援歌である(ただし、「〜のようだ」を与田とかけている)。当時、若手で活躍していた与田を応援する女性ファンの心理で歌われている。後に『蔵出・山本正之作品大全集』にも収録されたが、個人の応援歌という事もあってか、中日の応援歌等を集めた『昇竜魂〜ドラゴンズ70thメモリアルソングス〜』には収録されていない。
・引退して解説者の仕事を引き受けた後、元アナウンサーの夫人から話し方や表情の作り方を丁寧に教わったという。

◆ 年度別投手成績