178cmという身長は当時にあって長身、力も強く左四つからの吊り、寄りを武器に
幕内にあっても期待通りの活躍を見せた。新入幕の場所で7勝2敗を挙げていきなり優勝相当の好成績を挙げ、
初代西ノ海(のち16代
横綱)
大達(のち大関)とともに「高砂
三羽烏」と謳われた。平幕暮らしが長かったものの入幕から6年後の
1889年(明治22年)1月場所で待望の大関に昇進した。ところが2場所とも勝ち越していながら、3場所目の
1890年(明治23年)1月場所で
関脇に落とされるという不運を味わった。その後3年間
三役を務めて
1892年(明治25年)6月場所を最後に引退した。
引退後は角界には残らず、地元青森に帰って土地相撲を率いて各地を巡業し、当時としては長命の66歳(
数え年で68歳)まで生きた。一ノ矢を慕って高砂部屋に入門するものが続出し、一時「
津軽部屋」とも呼ばれたほどだったという。そうしたことから、「青森相撲王国中興の祖」と呼ばれている。曾孫は
一乃矢藤太郎の
四股名を名乗り、
1960年代前半に
前頭で相撲を取った。