レッド・ケリー wikipedia|無料辞書
◆ 来歴
ケリーは、カレッジ時代(St.Michael's College)には、
ボクシングのウェルター級チャンピオンとして腕っ節の強さで鳴らした男であったが、20歳でプロ入りした後は自らをクールにコントロールし、極めて紳士的にプレーしたと伝えられる。ケリー自身、暴力を振るうことは、自らの拳も痛めるし、退場処分も受けるから馬鹿馬鹿しいといった趣旨の発言を残している。
ケリーのクリーンさは、後述生涯成績の項の
PIM(ペナルティボックスに入れられていた分数)の数値の低さにも現れている。またNHLの選手中最も紳士的でスポーツマンシップに則っていると認められる選手に与えられるレディ・ビング記念賞を通算4度(
1951年、
1953年、
1954年、
1961年。最初の3回はディフェンスとして受賞。)に獲得している。この賞は、ボディーチェックを頻繁に行うことの多いディフェンス選手が獲得することは極めて稀なこととされる。
ケリーは、ディフェンスとしてはチェックとパック捌きの巧みさで知られるが、レッドウィングスに故障選手が蔓延した時に、臨時にウイングとしてプレーしたこともあり、
1954年にはオールラウンドな能力を発揮したディフェンス選手に与えられるジェームス・ノリス記念賞を受賞している。
1960年になると、骨折しているにも拘わらず無理やり試合に出場することを強いたレッドウィングス首脳、ジャック・アダムス (Jack Adams) とケリーの溝が深まり、
2月4日に
ニューヨーク・レンジャースへのトレードが発表されるが、ケリーはこの冷たい仕打ちに憤慨しトレードを拒絶、翌日に引退を表明する。このためこのトレードは無効となった。ここでメープルリーフスのコーチであった Punch Imlach がケリー獲得のため説得に乗り出した。Imlach は、
モントリオール・カナディアンズの覇権を打ち砕くべく、メープルリーフスファンのケリーの心を擽る。ケリーは、ジュニア時代にトロントのアリーナで大事な試合に敗戦した苦い思い出があることから、そのアリーナを余り好まなかったといわれるが、
2月10日に同チームに入団することを決めた。
ここでケリーは心機一転センターにポジションチェンジし、点取屋の Frank Mahovlich (1961-1962シーズンに48ゴールをたたき出した。)を巧みに使いこなすゲームメーカーへと転身した。ケリーは、デトロイト(同僚には
ゴーディ・ハウ、
シッド・エイベル、
テッド・リンジーら有力選手がいた。)での4度の
スタンレー・カップ優勝経験を活かし、メープルリーフスをも4度の優勝に導いた。
さらに1976-1977シーズンをもってホッケー界から引退し、航空機整備関係の会社を経営し成功を収めた。
◆ 受賞歴等
・ オールスター第1チーム選抜(1951年、1952年、1953年、1954年、1955年、1957年)
・ オールスター第2チーム選抜(1950年、1956年)
・ オールスター出場(通算13回。1950年から1958年まで、1960年から1963年まで)
・ レディ・ビング記念賞(1951年、1953年、1954年、1961年)
・ ジェームス・ノリス記念賞(1954年)
◆ 生涯成績
| シーズン |
チーム |
リーグ |
GP |
G |
A |
Pts |
PIM |
GP |
G |
A |
Pts |
PIM |
| 1948-49 |
60 |
6 |
14 |
20 |
13 |
10 |
3 |
2 |
5 |
2 |
| 1948-49 |
デトロイト・レッドウィングス |
NHL |
59 |
5 |
11 |
16 |
10 |
11 |
1 |
1 |
2 |
10 |