第二次世界大戦後、
1956年の
経済白書が「もはや
戦後ではない」と明記し、
景気が上昇していた中で、
宮内庁は
1958年11月27日、
皇室会議が
日清製粉社長
正田英三郎の長女・美智子を皇太子妃に迎えることを可決したと発表する。1957年に
聖心女子大学英文科を卒業していた美智子はその年の夏、皇太子と
軽井沢で親善
テニス・トーナメントの対戦を通じて出会い、皇太子は美智子の人柄に惹かれて自ら妃候補にと言及したと報道され、
皇族か
五摂家といった特定の
華族から選ばれる
皇室の慣例を破り、
財界出身とはいえ初の
平民出身皇太子妃として注目の的となった
[一方で、香淳皇后、梨本伊都子、秩父宮勢津子妃、松平信子ら旧華族出身者はこれをよしとせず、果てはその意を受けて右翼を動かし結婚反対運動を起こそうとした者もいたという。入江相政日記より]。
昭和天皇は「皇室に新しい血を」という意向だったとされている
[日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【天皇制について】: 「[外部リンク] 新天皇とともに開く『平成』」(1989年1月9日付読売新聞朝刊)]。正田家は家柄が違いすぎるとして当初、固辞の姿勢を見せたが、皇太子の「柳行李一つで来てください」との言葉が決め手となって決心を固めたと報道された。しかしこの報道は事実ではなく(「ご学友」
橋本明の創作)、のち2001年に行われた天皇の記者会見では「このようなことは私は一言も口にしませんでした」と強く否定、
プライバシーと尊厳の重要性に言及し、報道のあり方に疑問を投げかけている
[宮内庁: 「[外部リンク] 天皇誕生日に際する記者会見」で「プライバシーを守ることは、他人の尊厳を守ることであり大切なことです。また、プライバシーに関する誤った報道は、これを正すことは非常に難しく、時には、長期間にわたって誤った報道が社会に流れていくことになります」と述べている(2001年12月18日)]。