ボビー・クラーク wikipedia|無料辞書
◆ 来歴
◇ 糖尿病との闘い
ボビー・クラークの故郷 Flin Flon は鉱業が主体の小さな村である。クラークは、毎日何時間か鉱山で作業を行いながら、8歳のときから加入していた地元ジュニアのホッケーチーム (Flin Flon Bombers, ジュニア・ウエスタン・ホッケーリーグ) でプレーを行ったといわれる。1967-1968シーズンには51ゴール、117アシスト168ポイントをあげてその得点力とリーダーとしての資質はNHLのスカウトたちに高く評価された。
しかし、プロ入りには一つの大きな壁があった。それは、15歳の時
糖尿病と診断され、毎日
インシュリンの注射を打って自己管理を行わなければ生命を維持できない体であったことである。
1969年のNHLドラフトで、第2巡目、全体で第17位の指名を受けてフライヤーズに入団する前には、プロからの指名がご破算となるのを懸念したクラークのコーチが北米でも指折りの医療機関といわれる
ミネソタ州のメイヨークリニックの医師に頼み込んで、クラークの持病がプレーするのに差し支えない旨の診断書を作成してもらったといわれる。
フライヤーズ入団直後には、軽い朝食しか取らないでキャンプに臨んだために、昏倒してしまうといったこともあった。しかし、食事療法により病と付き合いながら徐々に成績を向上させ、
1972年にはその忍耐強さ、克己心によってビル・マスタートン記念賞を受賞した。
後年、クラークが試合に臨んで食べたものは語り草になっており、まず、ゲーム前には炭酸飲料にスプーン3杯の砂糖を加えたものを摂り、試合のピリオド間の休憩や試合後、オレンジジュースに加糖したものを補給した。またチョコレート・バーやブドウ糖が添加されたガムを常にバッグに入れていたとも伝えられるが、これらはすべて60分間の試合において、激しい運動により血糖値が低下することを防ぐためであった。
◇ NHL在籍
クラークは、
1969年から
1984年までNHL通算で15シーズンをプレイしたが、フライヤーズ一本やりで、生涯358ゴール852アシストの記録を残した。
もっともクラークの率いた当時のフライヤーズは、お世辞にもスマートなチームとの評価は受けておらず、厳しい当たりやラフファイトは頻繁で、他チームからはブロードストリート・ブリーズ (ならずもの、暴漢) とも揶揄された。クラーク自身も、単なる点取り屋にはとどまらず、時にラフプレーや乱闘に加わることもあったと伝えられる。また、リンク外の契約交渉では、自己の年俸交渉を有利にするためチームのフロントと密約を結んでいたとの噂もあった。
クラークに対する評価は、「才能に恵まれた史上最高のチームリーダー」とするものと、「指折りのダーティな選手」とするものとが混在しており、良くも悪くもファンにとって強烈な印象を残した選手といえる。
◇ 国際試合
1972年のサミットシリーズ、対旧ソビエト連邦 (USSR) チームとの対戦で、クラークはカナダチームのメンバーに選出された。この当時カナダチームはUSSRの実力を見くびっていたともいわれ大苦戦するが、センターのクラークと彼が統率する
トロント・メープルリーフスの両ウイング、
ポール・ヘンダーソン (Paul Henderson) 、
ロン・エリス (Ron Ellis) の活躍もあってカナダはこのシリーズに辛勝した。
なおクラークは USSR のスター選手であった Valery Kharlamov に対し故意ともいわれる悪質なファールを行っているが、当時のいわゆる冷戦状況の下において、カナダではこれを批判する声が少なく、むしろクラークは国民的人気に寄与したとされている。
◇ NHL引退後
クラークは、引退後もフライヤーズとのかかわりをもち、チームの会長兼ゼネラルマネージャーを務める。
組織運営にも手腕を発揮し、2004-2005シーズンには、フライヤーズ傘下の2つのファームチーム、トレントン・タイタンズ (Trenton Titans) とフィラデルフィア・ファントムズ (Philadelphia Phantoms) のそれぞれが、所属のリーグで優勝を収めた。
◆ 受賞歴等
・ オールスター第1チーム選抜(1975年、
1976年)
・ オールスター第2チーム選抜(1973年、1974年)
・ ビル・マスタートン記念賞 (1972年)
・ レスター・B・ピアソン賞 (1973年)
◆ 生涯記録
| シーズン |
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リーグ |
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A |
Pts |
PIM |
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