アングルは12歳の時、
トゥールーズのアカデミーに入学。
1797年パリに出て、新古典派の巨匠、ダヴィッドのアトリエに入門する。
1801年『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』で、当時の若手画家の登竜門であった
ローマ賞を受賞した。ローマ賞受賞者には、国費での
イタリア留学が許可されたが、アングルの場合は、当時のフランスの政治的・経済的状況のため留学が延期され、
1806年にようやくイタリアへ向かっている。その後アングルは
1824年までの長期間イタリアに滞在し、
1820年までは
ローマ、以後1824年までは
フィレンツェで活動している。この間、
ラファエッロ、
ミケランジェロなどの古典を研究し、生活のために肖像画を描きつつ、母国フランスのサロンへも出品していた。有名な『ヴァルパンソンの浴女』(
1808年)、『横たわるオダリスク』(
1814年)などはこの時期の作品である。
長いイタリア滞在の後、1824年、フランスに帰国。翌年
レジオンドヌール勲章を受け、アカデミー会員にも推されている。10年ほどの母国での活動を経て、
1834年(1835年とも)再びイタリアへ向かった。ローマでは同地のフランス・アカデミーの院長を務めた。
1841年再びパリへ戻る。この頃のアングルは祖国フランスでも押しも押されもせぬ巨匠と目され、
1855年のパリ万国博覧会においてはアングルの大回顧展が開催された。代表作の1つ『トルコ風呂』は、最晩年の
1862年の制作である。円形の画面に退廃的・挑発的な多数の裸婦を描きこんだこの作品は、当時82歳の画家がなお旺盛な制作欲をもっていたことを示している。
アングルは絵画における最大の構成要素は
デッサンであると考えた。その結果、色彩や明暗、構図よりも形態が重視され、安定した画面を構成した。その作風は、イタリア・
ルネサンスの古典を範と仰ぎ、写実を基礎としながらも、独自の美意識をもって画面を構成している。『横たわるオダリスク』に登場する、観者に背中を向けた裸婦は、冷静に観察すると胴が異常に長く、通常の人体の比例とは全く異なっている。同時代の批評家からは「この女は脊椎骨の数が普通の人間より3本多い」などと揶揄されたこの作品は、アングルが自然を忠実に模写することよりも、自分の美意識に沿って画面を構成することを重視していたことを示している。こうした「復古的でアカデミックでありながら新しい」作画態度は、近代の画家にも影響を与えた。
印象派の
ドガや
ルノワールをはじめ、
アカデミスムとはもっとも無縁と思われる
セザンヌ、
マティス、
ピカソらの画家にもその影響は及んでいる。