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「テッド・ウィリアムズ」||スポーツ-master.com 【05/27update】

テッド・ウィリアムズ wikipedia|無料辞書

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|出身地 =
アメリカ合衆国
カリフォルニア州サンディエゴ
|生年月日 = 1918年8月30日
|没年月日 =
|身長 =
|体重 =
|利き腕 = 右
|打席 = 左
|守備位置 = 外野手
|プロ入り年度 = 1936年
|ドラフト順位 =

▲上へ / ▼下へ

|初出場 = 1939年4月20日
|最終出場 = 1960年9月28日
|年俸 =
|経歴 =
ボストン・レッドソックス(1939年 - 1942年、1946年 - 1960年)
|選出国 = アメリカ
|選出年 = 1966年
|得票率 = 93.38%
|選出方法 = 全米野球担当記者協会選出
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テッド・ウィリアムズ(Theodore Samuel "Ted" Williams1918年8月30日 - 2002年7月5日)はアメリカメジャーリーグボストン・レッドソックスで活躍した元野球選手である。右投げ左打ち。カリフォルニア州サンディエゴ生まれ。ロジャース・ホーンスビーと並び、メジャーリーグで三冠王を2度獲得した。打撃の神様と呼ばれている。

◆ 来歴

◇ デビュー前
1918年、サンディエゴで生まれる。名前の"Theodore Samuel"は、彼の父サミュエル・スチュアート・ウィリアムズと大統領セオドア・ルーズベルトにちなんで名づけられた。地元サンディエゴのハーバート・フーバー高校で野球をやっていた頃からその才能は注目され、高校在学中には既にセントルイス・カージナルスニューヨーク・ヤンキースからのオファーを受け取っていた。しかし、サンディエゴを離れるにはまだ若すぎるとの母親からの反対でテッドは当時まだマイナーリーグに所属していた地元のパドレスと高校在学のまま契約を交わした。テッドはマイナーリーグで上記のパドレスとミネアポリスに所属し、メジャーリーグ昇格の機会を伺っていた。

◇ メジャーでの球歴
1939年にメジャーデビュー。打率3割2分7厘、本塁打31本、145打点の活躍で最多打点のタイトルを獲得。1941年には打率4割の期待がかかり、シーズン終盤でフィラデルフィア・アスレチックスとのダブルヘッダーを残して打率3割9分9厘5毛で周囲から欠場も勧められた(打率は、毛を四捨五入して厘の値までとするため、この時点でも、記録上は4割となる)。最終的に試合には出場、8打数6安打で見事打率4割を6厘上回り首位打者本塁打王のタイトルを獲得した。これ以降、メジャーリーグで4割を打った打者はただの1人として存在せず、現在のところ、テッドはメジャーリーグ最後の4割打者と称される。その強打に対してクリーブランド・インディアンスの監督ルー・ブードローは内野手を右に寄せるブードローシフトと呼ばれる作戦をあみ出し、後年日本で王貞治に対する王シフトの原型となった。
第二次世界大戦朝鮮戦争による2度の従軍中は出場することが出来なかった年齢でいえば、25歳から27歳までの三年間は出場なし、34歳・35歳の二年間でわずか44試合出場に終わっている。このブランクさえなければ、物量的な成績・記録において相当上積みできたと言われている。1960年に引退するまで強打でチームを引っ張り、今も521本塁打、通算打率.344は古巣レッドソックスの球団記録として残っている。また通算OPS1.116はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位、通算出塁率.482は歴代最高の数字である。Untouchableと言われる出塁率5割を3度も達成しており、さらに.490台を4度も記録した。1966年には野球殿堂入りも果たしており、彼の背番号9はレッドソックスで永久欠番となっている。

◇ テッドの死体を巡る裁判騒動
死の直前、自分の死体を冷凍保存する旨の遺言を残したなどで物議を醸した。
長男3回目の結婚の時の妻との子供は冷凍保存を望み、長女1回目の結婚の時の妻との子供は火葬し遺灰を海にまく事を望んだ。一審では長男の勝訴となったが納得のいかない長女は再審を希望した為、やり直しとなった。そして判決の結果、どちらの意見も尊重し遺体の頭部を冷凍保存、胴体以下を火葬とする判決が出された頭部は長男、胴体以下は長女に引き渡された。現在は実際に頭部のみアルコー延命財団で冷凍保存されている。因みに長男は数ヵ月後に急性白血病により亡くなっており、本人の希望により同財団に冷凍保存された(英語版「」より一部翻訳。詳細は英語版を参照のこと)。

◆ 年度別打撃成績