しかし、アラリックが狙っていたのはもう東ローマ帝国ではなく西ローマ帝国、なかでもその中心であり豊かなイタリアを目標としていた。一度北のドナウ川流域に出て、いくつかの
ゲルマン民族を吸収して
400年、西ゴート族はイタリアへとその兵を進めた。当時、西ローマ帝国の宮殿は
ミラノにあったが皇帝
ホノリウスは、さっさと宮廷を捨てて
ラヴェンナへと逃げ出したのである。将軍スティリコはその時、ラエティア(ほぼ今のスイス)でアレマンニ族と戦っていたが、急遽彼らを降伏させてイタリアへと急行した。そして
403年、ボルレンティアの戦いで西ゴート軍は敗れた。アラリックは死中に活を求め、ローマを急襲しようとしたが包囲され、なんとか逃亡する。
敗走後はイリュリクムに戻って再起を図っていた。そののち、ホノリウスから、西ローマ軍にくわわるようもとめられたが、
ガリア情勢が逼迫して、この企てはとりやめになり、アラリックは賠償として黄金1800kgを要求した。スティリコはそれに応じたが、ホノリウス帝がスティリコを処刑して、合意は破棄された。そこでアラリックはイタリアに侵入してラヴェンナにはかまわずローマへと進撃して市を攻囲した。ここで和平交渉が行われたが、無礼で軽率な書簡がアラリックを怒らせ、
410年に西ゴート軍は史上初めて、この不落をうたわれた帝国の首都を陥落させ、三日間に渡り略奪する。その後、
アッピア街道を南へと進軍したがまもなくアラリックは病死した。